2012年4月1日日曜日

中野剛志亡国論 7 昭和天皇退位論とアジア諸国への謝罪

TPPや市場経済についてデマを流しまくり、日本国民の頭の中を真っ赤に染め上げようとしている中野剛志ですが、とんでもない発言をしていたので、ご紹介しましょう。

表現者vol.26(2009年9月号、112頁~115頁)より、一部引用
http://www.hatugenshajuku.net/
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我が国の国柄に合致した政教の関係を踏まえた場合、天皇は、大東亜戦争について、どのように身を処すべきだということになるであろうか。それについて、筆者が最も有力と考えうる選択肢は、政治学者の河原宏氏の議論である。河原氏は『日本人の「戦争」―― 古典と死生の間で』の中で、大東亜戦争に関し、昭和天皇に問えるのは政治的な責任ではなく、道義的な責任であるとした。その上で、同氏は、天皇が道義的責任を果たすための最善の方法は、退位し、出家することであったと主張したのである。
天皇が出家することのポイントの一つは、天皇が神道の最高神主の立場から一仏弟子の身に移ることで、神道という一民俗宗教の見地からではなく、仏教という世界宗教の視野から戦争を見直すというところにある、と河原氏は言う。
例えば、靖国神社は、天皇のために戦って死んだ者のみを祀る場であり、それゆえに、「靖国問題」あるいは「靖国問題の政治的利用の問題」を招いている。これに対し、仏教は、神道とは異なり、敵味方、国籍を超えて、すべての衆生を平等に見る理念をもっている。それゆえ、天皇は仏門に入り、すべての戦争犠牲者を哀れむことによって、敵味方の別なく、特にアジアの民衆の犠牲に対して、道義的に対応することができるのである。
すべての犠牲者を平等に哀れむという仏教の理念は、日本人にとっても身についたものである。しかも、我が国の歴史上、天皇が仏門に入ることは、なんら異例なことではない。
河原氏は、天皇の出家のイメージの例を、『太平記』の光巌院(北朝の天皇であったが、戦乱続きの世を嘆いて出家し、諸国を行脚)に見出している。
退位した天皇の出家は、我が国の歴史に沿う形式であり、そして仏教による敵味方の別なき供養は、我々の慣習に合致する。
それゆえに、出家による道義的責任への対応こそが、我が国の国柄にもっとも相応する責任の呆たし方であった。天皇は、国柄にあった身の処し方を自ら示すことで、敗戦という国家的危機にあって、国柄の所在を指し示し、国をまとめることができたはずであった。また、それが天皇の存在意義のはずであった。
天皇出家論を唱えた河原氏の主眼も、歴史と国柄を回復するという点にあった。
「敗戦と占領によって、日本人が唯々として、あるいは喜々として自らの歴史を破却したことは、その後の無責任状況到来の一因となっている。歴史を捨てて、人は道義の依るべき根抜を見うしなう。」
「道義的責任を没却した日本人の戦後姿勢は、まさに戦後史の内に明証されている。これこそが天皇の戦争責任だった。」(日本人の「戦争」―― 古典と死生の間で)

天皇は、人智を超えた危機にあっては、我が国の国柄を確認・回復するという使命を負った存在なのである。そして、そういう使命を課したのも、我が国の国柄であった。しかし、敗戦と占領という危機にあって、天皇はその本来の使命を果たさなかった。それゆえ、戦後、国柄は棄損されてしまった。
当然のことながら、国柄が定めた天皇の微妙な位置づけも忘れられ、不毛な戦争責任論が継続する事態を招いた。
河原氏が、本当に問うているのは、天皇の戦争責任ではない。むしろ戦後責任なのである。






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引用終わり


上記の中野の文章については、極左言論人も絶賛しています。
http://www2.ocn.ne.jp/~aozora/taiwa/node42.html

(注)この対談の中で出てくる人物
横田喜三郎・・・極度のマルキスト。法学者でありながら東京裁判を「国際法の革命」と絶賛。過激な皇室廃止論者。「(皇室の存在は)無知と奴隷的服従が日本の人民の自然な発達を阻止したために生じた奇形状態にすぎない」と発言(横田喜三郎 「天皇制」38頁)
奥平康弘・・・「九条の会」呼びかけ人。過激な皇室廃止論者。
南原繁・・・元東大総長。極左の大御所・丸山眞男の恩師。非武装中立論の本家本元。「ソ連に進駐してきて欲しい」「昭和天皇は退位すべき」と主張。



中野は先帝陛下に対して、敬語すら使いません。
上記の中野剛志の主張は、河原宏という極左学者の文章を引用しながら、回りくどく言っていますが、要するにこういうこと。


       ↓


①昭和天皇には大東亜戦争に関する道義的責任がある。




②昭和天皇は"道義的責任を取って退位し、出家すべきだった"



③大東亜戦争の犠牲になったアジアの民衆に対しても"道義的責任"を負うべき


この中野剛志の①~③には、私は次のように反論したい。

①『昭和天皇には大東亜戦争に関する道義的責任がある』
②『昭和天皇は"道義的責任を取って退位し、出家すべきだった"』

⇒中野は自分が昭和の御世に生まれ、昭和天皇の"ご聖断"により生を受けたにも関わらず、何を言っているのでしょうか?非国民とはこのような人物のためにある言葉です。

大東亜戦争の責任は、スターリンを頂点とするコミンテルン、日本国内に巣食っていた赤い軍人、赤い高級官僚、赤い政治家たちにあります。
昭和天皇は国家存亡の危機にあたり、祖国日本の救出を担われた、高貴かつ孤高の天皇陛下であられました。
偉そうに『出家せよ』とは言いますが、昭和21年から昭和29年まで続けられた全国行幸すら知らないのでしょうか?

また、明治憲法下の皇室典範、現行皇室典範においても退位の定めはありません。
⇒以前のブログでも述べましたが、「退位の自由」なるものを定めるのは、皇室典範の改悪であり、同時に「即位の自由」も定められれば、天皇位への即位辞退と次期皇太子候補の皇太子辞退を強制され、そこで我が国の皇統は終了します。まさに極左と中共、コリアン(特に北朝鮮)、ロシアの狙い通り。共産主義革命への最後にして最大・最強の砦である皇統の終了です。
(ご参考) 女性宮家の危険性が分からない民族系論者 #女性宮家
http://megu777.blogspot.jp/2012/03/blog-post_03.html


かつて日本を滅ぼそうとした者の血を引く志位和夫が率いる日本共産党と、民族系に巣食う赤い工作員は阿吽の呼吸で動きます。また、日本の大多数の民族派は反共イデオロギー、反全体主義イデオロギーに無関心であるため、容易に洗脳されます(稲田朋美も含む)。極左の手玉に取られているのが現状。




(新党日本HPより)
日の丸と赤旗がTPPで連帯する
http://www.nippon-dream.com/?p=6049




日本共産党・志位和夫委員長の伯父・志位正二(関東軍参謀⇒戦後、共産党員)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%97%E4%BD%8D%E6%AD%A3%E4%BA%BA
1948年4月にソ連諜報員となる誓約を行い、モンゴルのウランバートルにあった「第7006俘虜収容所」において朝枝繁春、瀬島龍三、種村佐孝らとともに諜報員、共産主義革命のための特殊工作員としての訓練を受ける。1948年11月、シベリアより復員。1950年6月、GHQの取調べを受ける。1953年11月、外務省アジア局調査員となる。
ユーリー・ラストヴォロフがアメリカ合衆国に亡命した後の1954年2月5日、警視庁公安課に自首し、自身がソ連の工作員(スパイ)であったことを認めた



日本共産党
・『現在ある日本の主な政党の中で、唯一戦前生まれの政党が日本共産党である。日本共産党が創立されたのは、1922年7月15日である。ロシア社会主義革命の指導者レーニンによってつくられたコミンテルン日本支部としての誕生であった。1961年に作られた綱領では、冒頭、次のように書かれていた。「日本共産党は、第一次世界大戦後における世界労働者階級の解放闘争のたかまりのなかで、十月社会主義大革命の影響のもとに、我が国の進歩と革命の伝統を受け継いで、1922年7月15日、日本労働者階級の前衛によって創立された」』(筆坂秀世「日本共産党」新潮新書27頁)
『コミンテルンと日本共産党の代表によってつくられた「二七年テーゼ」には、「労働者階級は、その最も先進的、革命的、意識的、組織的な部分たる共産党の指導下においてのみ、勝利を確保できる」「思想的に鍛錬された大衆的共産党なくしては、プロレタリア革命の勝利は不可能である、というレーニンのテーゼが絶対的に正しい」などと記されていた』(筆坂秀世「日本共産党」新潮新書36頁)



③『大東亜戦争の犠牲になったアジアの民衆に対しても"道義的責任"を負うべき』


⇒「アジアの民衆」で我が国に謝罪を求めてくるのは、具体的には、中国、北朝鮮、韓国のみ。
なぜ謝罪などせねばならないのでしょうか?
あえて我が国の先の大戦の対外的な問題点と課題を言えば、中共、北朝鮮などのアジアの赤化に協力してしまい、今も圧政下で苦しむチベットやウィグル、旧満州、北朝鮮の人達に対し、「責任」を果たすため、北朝鮮の体制崩壊、中国共産党の打倒こそすべきでしょう。

中野剛志の真意は
・「日米同盟潰し」
・「市場経済潰し」
・「大量の国債発行による子孫虐待」
・「TPPを妨害し、反米感情を煽り、結果として東アジア共同体への道筋をつけて中国共産党をアシスト」
・「日本の共産革命(⇒当然、皇統も断絶)」

だから、皇室への暴言や日中同盟の提唱、北朝鮮による拉致被害者への暴言を吐く西部邁の子分になるのでしょう。

エセ保守監視小屋 REVIVALシリーズ(西部邁と小林よしのりの暴言集)
http://megu777.blogspot.jp/search/label/%E8%A5%BF%E9%83%A8%E9%82%81


『国柄が定めた天皇の微妙な位置づけも忘れられ、不毛な戦争責任論が継続する事態を招いた』という中野の発言についても、馬鹿丸出です。
"不毛な戦争責任論"を言っているのは、主に極左と反日外国勢力、そして日教組に洗脳された人達だけ。全く馬鹿げています。


中野は昭和天皇に"道義的責任""退位"を迫るのなら、自分自身の"道義的責任""退職""給与と留学費用等の国庫への返納"をすべきでしょう。

TPPでデマを流し続けた罪は万死に値する。
中野剛志、三橋貴明らは平成版・コミンテルン工作員


(ご参考)

中野剛志が『最も有力と考えうる選択肢は、政治学者の河原宏氏の議論』として引用している『日本人の「戦争」―― 古典と死生の間で』(河原宏著、ユビキタ・スタジオ)には、こんなことが書かれています(嘘と祖国日本に対する罵声の羅列)。思想的に親子の間柄だから、こんな本に感化されるのでしょう。普通の日本人なら、共感どころか吐き気がして全く読む気の失せるような内容です。

・『戦前の日本では皇室自体が巨大な資本家だった』(91頁)
・『外国人労働者・「従軍慰安婦」の強制連行問題、インドネシアの老人たちが提起している兵補の問題、香港における軍票の問題等々、戦争が遺し、現在にまで引きずる諸問題が山積していることは周知のところである』(136頁)
・『ここに当時、労務管理の側に立った日本民衆の戦争責任があるのは明らかであろう。それは、日本人の差別・優越意識と結合して、朝鮮人労働者に対してだけでなく、広くアジア各地で繰り広げられたことだったからである。あるいは、この優越感のみが、民衆の受益した戦時利得だったかも知れない』(170頁)
・『ソビエト解体後、アメリカのあるレストラン主は廃品となったソ連のレーニン像を買い込み、台座に「我ら勝てり」というプレートを嵌めて店頭に飾っている。いかにもアメリカ人らしい単純率直さだが、資本主義の勝利を誇る似たような議論はしばらくの間、日本でも横行したことがあり、嗤うわけにはいかない。しかし、イデオロギーのしがらみから解放されたレーニンを改めて思想として見直す時、その指摘の鋭さと価値は決してこのように単純なものではない』(210頁)


中野剛志・東谷暁・三橋貴明らが完全なデマを流布している
http://taste.sakura.ne.jp/static/farm/society/tpp_isd.html

TPPには反対しても日中韓FTAには沈黙する"TPP嘘つき四人組"
http://megu777.blogspot.jp/2012/03/tppftatpp.html

中野剛志亡国論 TPP反対屋の巧妙な手口・ダマしの数々
http://megu777.blogspot.jp/2012/02/tpp.html
http://megu777.blogspot.jp/2012/02/tpp_03.html
http://megu777.blogspot.jp/2012/02/tpp_10.html
http://megu777.blogspot.jp/2012/02/tpp_10.html
http://megu777.blogspot.jp/2012/02/tpp_13.html

右翼と左翼は同じ穴のムジナ
http://megu777.blogspot.jp/2011/07/blog-post_31.html


まだ中野の暴論(今はダンマリ)については、他にも重大な問題が潜んでいます。
中野剛志の思想本籍は解剖して晒しておく必要があるため、今後も重要テーマとして取り上げたいと思います。


『戦前の日本の軍部と右翼が、絶対に許すべからざる存在と考えたのは、むしろ「自由主義者」であって、必ずしも「社会主義者」ではない。社会主義は、ただ方向を誤っただけで、彼らの意図そのものは必ずしも誤りではないから、方向さえ変えさせれば、いわば転向さえすれば、有能な「国士」になると彼らは考えていた。従って、転向者の多くは軍部の世話で、「満鉄調査部」に勤めていたところで、それは必ずしも不思議ではない。だが、彼らは、自由主義者は、箸にも棒にもかからぬ存在と考えていた。この考え方は、青年将校などにも明確にあり、自由主義者とは「転向のさせようがない人間」いわば、彼らにとっては「救いがたい連中」だったわけである』(山本七平著「空気の研究」文春文庫、138頁)

『(第二次大戦までに)ドイツから自由主義的な要素をすべて駆逐してしまったのは、右翼と左翼の両陣営における反資本主義勢力の結合である』(ハイエク・隷従への道)


『市場による全ての個人を超えた非人格的規律によって支配される秩序を選ぶか、それとも少数の個人達の意思によって支配される道を選ぶか、その二者択一以外のどのような可能性も我々にはない。そして、市場による支配を破壊しようとしている人々は、意図しようがしまいが、少数者による支配の状況を創りだすのを手助けしているのである』(ハイエク・隷従への道)