2013年3月24日日曜日

「ショック・ドクトリン」という極左用語を使う社会主義者たち  ~三橋貴明編

三橋貴明、中野剛志、藤井聡ら「赤い売文業者」の発言の中には、頻繁に「ショック・ドクトリン」という言葉が出てきます。

その語源?をご存知でしょうか。

当ブログでは、「赤い売文業者」の発言と、「ショック・ドクトリン」の発信源を明確にすることにより、民族系論壇に巣食う赤い売文業者の思想本籍を明らかにしたいと思います。


まず、次の文章をご紹介します。


三橋貴明のブログより(先月のもの)


(転載はじめ)
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『ギリシャの「債務危機」という「ショック」を「活用」し、同国のインフラストラクチャーを「グローバル資本」が安く買い叩き、その後は「独占の外資系企業」として、ギリシャ国民の所得を奪取しようとしているに過ぎないのです。すなわち、ショック・ドクトリンです。
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(転載終わり)





で、「ショック・ドクトリン」という、つい最近まで聞きなれない言葉がどこから出てきたのか調べてみました。

出てきたのは、これ



米国在住の極左である、ナオミ・クラインの著書



例えば、こんなことが書いてあります。

「ショック・ドクトリン」(ナオミ・クライン著 ショック・ドクトリン 惨事便乗型資本主義の正体を暴く 上、岩波書店)

(転載はじめ)  青字はブログ主のツッコミ
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壊減的な出来事が発生した直後、災害処理をまたとない市場チャンスと捉え、公共領域にいっせいに群がるこのような襲撃的行為を、私は「惨事便乗型資本主義」と呼ぶことにした。(5~6頁)

イギリスのマーガレット・サツチヤー首相もまた、同じような目的から一九人二年に起きたフオークランド紛争を利用した。サッチャーは紛争によって生じた混乱と愛国的熱狂に乗じ、強権を行使して炭鉱労働者のストライキを潰すとともに、西側民主主義国家で初めて民営化狂乱の道へと歩み出す(注:意味不明、根拠なし)。 一九九九年、北大西洋条約機構(NATO)軍のベオグラード攻撃〔いわゆる「コツボ紛争Lによつて旧ユーゴスラビアには民営化即時導入の環境が整ったが、それは軍事行動を起こす以前から掲げていた達成目標だった(注:意味不明、根拠なし。ユーゴ内戦は、ユーゴスラビア連邦解体の過程で起こった内戦で。1991年から2000年まで紛争が継続し、NATOの軍事介入によってようやく終結した。ちなみにサッチャーが首相を退任したのは1990年)。これらの戦争や紛争が経済的動機のみで起こされたとは言えないにせよ、いずれのケースでも大規模なショツク状態が経済的ショック療法導入に利用されてきたことはたしかである。(12頁)

シカゴ流のショック療法をイギリスのような民主主義国で行なうのは不可能だという
のだ。第一期の三年目に入ったサッチャー政権は支持率の低下に悩んでおり、ハイエクの提案するような急進的あるいは国民に不人気の政策を取って次の選挙に負けるようなことは、断じてするわけにはいかなかった。
ハイエクと彼に代表されるシカゴ学派にとって、これは不本意な結論だった。(184頁)
(注:間違い。ハイエクはオーストリア学派。多くの点で似てはいるが、例えばハイエクとフリードマンの通貨政策は全く異なる)
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(転載終わり)

他にも突っ込みどころはいくらでもありますが、三橋貴明や中野剛志ら、赤い売文業者の言うことを疑って、少し自分で調べてみれば、そのデタラメさに気づくはずです。

以前、私がブログで書いた次の記事で取り上げた「新自由主義」というデヴィッド・ハーヴェイの極左用語(もともとは「法の支配」の下での自由というハイエクの主張を恣意的に捻じ曲げたもの)も、ついでにご参照いただきたく思います。



「新自由主義」という極左用語を使う社会主義者たち 
http://megu777.blogspot.jp/2012/07/blog-post_17.html



ちなみに、「ショック・ドクトリン」の著者のナオミ・クラインは、このデヴィッド・ハーヴェイという米国在住の極左の、マルクス礼賛本「〈資本論〉入門」(デヴィッド・ハーヴェイ著、作品社)に対して、次のコメントを寄せています。
『ハーヴェイ教授は、経済学やマルクス研究に革命を起こし、世界の新たな世代の知識人に影響を与えている。今を生きるすべての人が、本書を読むべきだ』(ナオミ・クライン)

(注)反面教師の教科書として読むなら可。ただし、カネのムダなので図書館で借りるか、本屋で立ち読みする程度でOK。









2013年3月20日水曜日

他人の不幸は蜜の味 ~チャンネル桜の楽しみ方♪

以前から、打倒民主党! 安倍晋三氏の総理大臣就任を待望する! 安倍政権断固支持!といい、一方で、TPP断固反対!を主張してきた「懲りない面々」がインターネット上で騒いでおりましたが、ここへきて、安倍政権がTPP参加を表明したことで、「安倍政権断固支持」かつ「TPP断固反対」の主張が意味不明なものとなり、非常に面白い様相を呈しています。

例えば、チャンネル桜に巣食うこの人たち、これからどうなるんでしょうね?

三橋貴明
水島総
西部邁
藤井聡
中野剛志
東谷暁
西田昌司
関岡英之
渡邉哲也
宮崎正弘
井尻千男
上念司
田中秀臣


先日、当ブログの読者様より、次のようなメッセージを頂戴しました。

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三橋とか言うのは放っておいた方がいいです。アレの目的は金儲けです。(中略)三橋の書くものがいくら酷くても現実にそれをありがたがる愚か者が沢山いる。救いようはハッキリ言ってありません。彼らは聞く耳を持っていないし、基本的リテラシーを有してないので三橋にだまされなくてもいずれ誰かにだまされる。
(中略)
いいんじゃないですか! 騙される自由もあるわけだし。
三橋はバカに夢を売るという一応の仕事はしているのだし、そういうマーケットもありますよ。
振り込めサギとかよりはマシかもしれませんよ。
(中略)
時間と労力を掛けるような事じゃないと思います。
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確かに、一理ありますね。特に、
「騙される自由もある」
「三橋はバカに夢を売るという一応の仕事はしている」

というコメントには大笑いしてしまいました(爆)

人生の無駄かな?ブログの更新をどうしようかな?と、悩んでもおりましたが、チャンネル桜で始まった内ゲバに「他人の不幸は蜜の味」のエンターテイメント性を見た私は、再び戻ってきてしまいました^^;

以前から安倍晋三氏はTPP参加については、決して否定的ではなく、「TPP不参加」は、ネトウヨの勝手な妄想に過ぎませんでした。

従来からの経済学の定説に従えば、自由貿易の推進は、我が国にとっても、世界の他の国々にとっても、望ましい結論にいたるのは当然です。
これまで何度も当ブログでは取り上げて来ましたし、常識的に考えて、


自由貿易ができない⇒ブロック経済化⇒資源を得るために戦争
の歴史も忘れたのでしょうか?

「自由に貿易で手に入る」「必要なものが外国(の企業)と売買・交換できる」仕組みがあるからこそ、我が国は繁栄を享受できるのであって、その逆をやれば、途端の苦しみを味わうことぐらい、分からないのでしょうかね?

自由貿易はインフレ対策、デフレ時は保護貿易って、意味不明ですねwww。

中野剛志、三橋貴明らは、要するに日本を孤立させたい、貧乏にしたい、日本人を餓死させたいと願ってるんでしょうかね?

自由貿易、市場経済が嫌なら、北朝鮮にでも住めば良いですね。

北朝鮮は、
・彼らが大嫌いな「金融資本」「自由競争」「グローバル企業」がない
・国家の負債は国民の資産(=国民の資産は国家の負債、要するに私有財産制度なし)
・彼らが連呼する社会契約論に基づいた「国民主権」「民主主義」を体現
・もちろん自由貿易なんて、もってのほか

ですから、彼らにとっては、まさに理想郷(ユートピア)なんでしょう。

ところで、話は変わりますが、皆様にご紹介したいブログの記事がございますので、転載いたします。

インターネット上では「TPP亡国論」一色であった一年前を思うと、随分と風向きが変わった感がありますが、世間の論調がどうであれ、お構いなしに持論を述べていたいと思います。


エドマンド・バーク リバイバルさんのブログより

http://burke-conservatism.blog.so-net.ne.jp/2013-03-14

(以下転載はじめ)
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日本国のTPP交渉参加のメリットに関する自由主義経済学諸論の若干の考察について


1 特定団体(=農水省・JA農協・一部農家など)に対する保護政策は、その団体外の一般人(=消費者たる国民・製造業・サービス業など)の経済的保障を必ず犠牲にするということを忘れてはならない。

ハイエク曰く
『特定グループに保障を与えることを市場体制の中で実行できる唯一の方法は、制限主義という名で知られている種類の計画化である。
この制限主義が主張する《統制》とは、産出を制限することによって《適正な》利益を保障することであるが、それは確かに市場経済下にある生産者が一定所得を得られるように確保できる唯一の方法である。
しかし、この方法は、必然的にその他の人々に開かれている機会を減少させることになる。
企業家であれ労働者であれ、生産に携わる者が、新規参入者廉価販売攻勢から保護されるとすれば、その保護ざれた産業は、裕福でない人々の機会を犠牲にして、社会一般よりも大きな繁栄を獲得することになる。
つまり、新規参入者の自由を制限することは、必ず他の一般の人々の経済的保障を削減するのである。そしてこのようなやり方で所得を保障される人々が増えれば増えるほど、その保障の範囲外にいる人々すべてに与えられる選択の機会は制限されていき、それらの人々は所得の損失を余儀なくされる。
また何らかの変化によって悪化した状況に立たされた人々は、その不運な所得の減少を回避できるようにするためのチャンスをますます失っていってしまう』(ハイエク『隷属への道』、春秋社、165~166頁)

『こうして市場体制への介入によって十分な保障を提供しようとすればするほど、経済的不安定は大きなものになっていく。
そしてより悪いことには、特権を保障された人々と、特権のない、不安定にいっそうさらされていく人々の格差が、ますます大きくなっていくのである。
そして保障が特権となればなるほど、それから排除される際の危険は致命的なものになっていき、保障の価値は益々貴重になる。このようにして、特権に与る人の数が増えていき、そうでない人との格差が開いて行けば、これまでとは違った、新しい社会的価値というものが生まれてくる。
所得や地位を与えてくれるのは、もはや自主独立ではなく、国家や特権的産業が与える保障である。
青年が結婚して一家を構えるのを可能にさせるのは、幸福を自ら築き上げる自信ではなく、年金に対するなんらかの権利である。
そして若くして特権的なサラリーマンという安息の地へ入ることを拒否された人々は、ルンペン同然の恐るべき不安定な状態で一生過ごさざるを得ない、というわけである』(ハイエク『隷属への道』、春秋社、167~168頁)


2 TPPへの参加とは、民間の経済的権力と国家の政治権力を分離して、自由貿易に対する参加国(政府)の強制権力を抑制する。
また、自由市場において、民間の経済的権力が諸個人に分散されることによって、TPP参加諸国民の経済的自由(延いては政治的自由、個人的自由)が擁護されるという重大な意義があることを忘れてはならない。
であるから、日本国のTPP参加によって、日本国(政府)が米国(政府)に輸入を強制されるとか、米国の農産物輸入強制圧力で日本国の農業が壊滅するとか日本国が亡国に導かれるなどの論理はTPPの意義がさっぱり理解できぬ愚者の論理であることは自明であろう。

なぜなら、TPP加盟国間の交易主体は、各国の政府ではなく、民間資本(個人)だからだ。


ハイエク曰く
『現在頻繁に要求される《経済的権力に代えて政治的権力を樹立すること》は、常に制限されている権力代えて、逃げ場のない(巨大な独裁)権力を樹立することを必ず意味するということである。
経済的権力(=大資本家、資本家など)と呼ばれているものは、確かに強制の道具ともなりうるものではあるが、それが民間の個人の手に分散されているかぎり、排他的権力にも完全な権力にもならず、個人の全生活を包括する権力にもならない。
しかしそれ(=経済的権力)が中央に集められ、政治権力の道具とされる得、それは奴隷制とほとんど区別しがたい権力への隷属を創り出してしまうのである』(ハイエク『隷属への道』、春秋社、167~168頁)


3 仮に世界全体が異常気象になって、TPP加盟諸国が食料を日本国へ輸出しなくなったらどうするのか?
全世界が同時に異常気象となり、世界全体が同時に食糧不足となり、飢餓に陥ったという歴史事実など全くない。
このような仮定自体が事実に基づかぬ恐怖煽動
にすぎないが、仮にそのような事態を想定したとしてもやはりTPP不参加よりもTPP参加の方が有利である。
言うまでもなく、TPP参加こそ、国家百年の計である。

アダム・スミス曰く、
『穀物取引の無制限無拘束の自由は、飢饉の悲惨に対する唯一の有効な予防策であるように、食料不足の不便に対する最良の緩和策でもある』
(アダム・スミス『国富論3』、岩波文庫、52頁)
『諸国民のすべてが輸出入の自由という自由な制度をとるとすれば、一つの大きな大陸が分割されてできている様々な国家は、その点(=貿易の点)で一つの大きな帝国の様々な州に似たものになるだろう。
一大帝国の様々な州の間では、国内商業の自由は、道理からいっても経験からいっても、欠乏の最良の緩和策であるばかりではなく、飢饉の最良の予防策でもあるが、一大大陸を分割している諸国家間の輸出入貿易の自由も同様だろう。
大陸が大きければ大きいほど(=市場の規模が大きければ大きいほど)、また、そのすべての地方間の水陸の交通が容易であればあるほど(=輸出入が自由であればあるほど)、その大陸のどこかある特定の地方が(=ある特定の国々あるいは地域が)、それらの災厄のいずれかにかりにも晒されることは、それだけ少ないだろう。
いずれか一国の欠乏は、どれか他の国の豊富によって緩和される可能性が大きいからである』
(アダム・スミス『国富論3』、岩波文庫、74頁)


4 買うよりも作る方が高くつくものは、自分で作ろうとはしないというのが、およそ一家の慎慮ある主人たる者の格言である。
どの私的家族の行動においても慎慮であるものが、一大王国(=国家)の行動において愚行であることはほとんどありえないというのが真理である。
もしある外国がある商品を、我々が自分で作るよりも安く我々に供給できるならば、我々の方がいくらかまさっている仕方で使用された我々の勤労の生産物の一部で、その外国からそれを買う方がいい(=比較優位)。

アダム・スミス曰く、
『買うよりも作る方が高くつくものは、自分で作ろうとはしないというのが、およそ一家の慎慮ある主人たる者の格言である。
仕立屋は自分の靴を創ろうとはせず、靴屋から買う。靴屋は自分の服を作ろうとせず、仕立屋を使用する。農業者はどちらも作ろうとはせず、それぞれの工匠を使用する。
彼らは皆、自分たちの勤労のすべてを、隣人たちよりも多少なりと優っている仕方で使用し、その生産物の一部で、あるいはそれと同一のことだが、その一部の価格で、何でも自分たちの必要とする別のものを購入するほうが、利益になることを承知している。
どの私的家族の行動においても慎慮であるものが、一大王国(=国家)の行動(=自由貿易)において愚行であることはほとんどありえない。
もしある外国がある商品を、我々が自分で作るよりも安く我々に供給できるならば、我々の方がいくらかまさっている仕方で使用された我々の勤労の生産物の一部で、その外国からそれを買う方がいい。
国の勤労全体は、その勤労を使用する資本に常に比例するのだから、上述の工匠たち(=仕立屋や靴屋)の勤労と同様、それによって減少することはないだろうし、もっとも有利に使用される方法を見出すのにゆだねられるだけのことだろう。
自国で作るよりも他国から買う方が安くつくような対象にそれが向けられる場合には、確かに最も有利に使用されるのではない。
それが振り向けられている商品の生産よりも、明らかに価値が大きい商品の生産から、こうしてそらされている場合には、勤労の年々の生産物の価値が多かれ少なかれ減少することは確実である』(アダム・スミス『国富論2』、岩波文庫、305~306頁)


5 自分たちの資本をどのように使用すべきかを指示しようと企てる権威が、自分こそ、それを行使するのに適していると想像するほど愚かで思い上がった人物(=利権政治家・政党・立法者・政府など)の手中にある場合ほど、危険なことはない。

アダム・スミス曰く、
『自分の資本が使用できるのはどんな種類の国内産業であるのか、またどんな種類の国内産業の生産物が最大の価値をもちそうであるかということを、どの個人も自分の身近な状況の中で、どの政治家や立法者が自分のかわりに判断してくれるよりも、はるかによく判断できることは明らかである。
政治家が私人たちに対して、自分たちの資本をどのように使用すべきかを指示しようと企てるとしたら、彼(=政治家)は極めて不必要な配慮(=経済統制化・計画化の任務)を自分に課するだけでなく、一個人はもとより、どんな枢密院または元老院にも安全に信託し得ない権威(=経済統制化・計画化の独裁権力)を、僭称することになるだろう。
この権威が、自分こそそれを行使するのに適していると想像するほど愚かで思い上がった人物(=政治家)の手中にある場合ほど、危険なことはないだろう』(アダム・スミス『国富論2』、岩波文庫、289頁)


6 外国貿易とは国家間の余剰生産物の交換であり、余剰生産物への交換価値の付与である。

 アダム・スミス曰く、
『外国貿易は、彼ら(=国民)の土地と労働の生産物のうち自分たちのあいだで需要のない余剰部分を(外国に)持ち出し、それと引き換えに自分たちの間で需要のある何か他のものを持ち帰る。
それは自分たちの余分のものを、自分たちの欲求の一部を充足し享受を増加させうる何か他のものと交換することによって、それに価値を与える。
それによって、国内市場の狭さがどの特定の部門の技術または製造業でも分業の最高度の完成を妨げなくなる。
それは自分たちの労働の生産物のうち国内消費を超過するどの部分に対しても、より広範な市場を開くことによって、それぞれ生産力を改良して年々の生産物をできるだけ増大させ、それによってその社会の実質的な収入と富を増加させるのを助ける。
外国貿易はこうした重大な任務を、外国貿易が行われる様々な国のすべてに対して、たえず遂行している』(アダム・スミス『国富論2』、岩波文庫、289頁)


7 資本主義体制の発展が独占資本主義を生みだすのではない。
独占資本を生みだすのは、価格や販売数量を調整しうる、より高度な独占の形成を国家(政府)が保護する政策を直接的な誘導や強制によって生じるのである。


ハイエク曰く、
『独占は(自由な競争によるのではなく)人為的に作られるという結論は、競争の衰退と独占の進展が、歴史上どの国から順番に起こってきたかを見れば、よりはっきり確証される。
この進展がテクノロジーの進化の結果とか、《資本主義》の進化の必然的産物であるならば、経済体制が一番進んだ国(=当時の英国など)でそれはまずおこるはずだ。
ところが歴史の事実から見ればそれはまず、19世紀の最後の1/3世紀に、当時は産業が比較的未発達であった米国とドイツという国で出現したのである。
特にドイツは、のちに資本主義の必然的進化の典型例とみなされるようになったが、実のところは、カルテルやシンジケートの拡大が、1878年以降、政府の計画的政策によって、体系的に進められていったのである。
ドイツ歴代の政府は、価格や販売数量を調整しうるより高度な独占の形成を、単に保護政策だけでなく、直接的な誘導や、究極的には強制によって進めていった。
まさしくドイツにおいてこそ、国家の直接的な援助のもとに《科学的計画化》や《産業の意図的組織化》をめざしての最初の大きな実験がなされ、それが巨大な独占体の形成をもたらしたのである。
・・・このように、競争体制は《独占資本主義》へと必然的に発展していくという考え方が広く受け入れられるようになったのは、自国における(特殊な)経験を一般化しようとしたドイツの社会主義理論化、とりわけゾンバルトの影響に大きくよるものである』
(ハイエク『隷属への道』、春秋社、55~56頁)
『この点に関して近年行われた最も包括的な実証研究は、米国の《臨時国家経済委員会》による《経済的権力の集中》に関してのものである。
この委員会の最終報告は大規模生産の効率性によって競争が消滅していくという主張は《現在入手しえたどんな事実にも、これを支持する証拠をほとんど発見できない》という結論を出している。
この委員会が提出したこの問題に関する詳細な報告書は、次のようにその回答を要約している。
「・・・最適な効率を生みだす企業規模は、供給の大部分が独占的コントロールにゆだねられるという段階のはるか手前で、最適点に達するものと思われる。
大規模生産の利点が不可避的に競争の廃止をもたらすという結論は、受け入れられない。
むしろはるかに注意すべきことは、独占はしばしば、大規模生産の効率性とは異なる別の要素によってもたらされるということである。
すなわち、独占は企業間の共謀によって作り出され、政府の公共政策によって促進されている。そういう共謀の協定が無効とされ、政策が撤回されるなら、競争が働く諸条件を回復することが可能である。」』(ハイエク『隷属への道』、春秋社、54~55頁)


8 以上の論理から、自由貿易(市場経済)・TPP交渉参加の否定論者は、必然的に国家(政府)権力(=経済統制力・強制力)の崇拝者である。

ハイエク曰く、
『ある国の資源が全部その国の独占的所有とされ、国際的な経済交流は個人間の流通ではなく国家を交易主体とした流通へと統制されていくようになれば、それは必ず国家間の摩擦や他の国への羨望を引き起こす原因となる。
市場や原資源を求める自由な競争に代えて、国家なり組織集団なりの間での交渉を処理していけば、国際摩擦は減少するだろう、というのは最も致命的に危険な思想の一つでしかない。
(私企業間の)自由競争制度の《闘争(競争)》というのは抽象的な表現にすぎず、逆に国家なり集団間の《交渉》というのは実はそれぞれの(政府による)力(=強制力・権力)比べなのだが、この主張は前者(=私企業の自由競争)に代えて後者(=各国政府の強制力比べ)を用いよという主張しているのである。
そして(各国政府の)力に訴えることなく(自由競争で)解決できる諸個人間の競合関係であったもの(=市場の自生的秩序=市場原理)を、上位の法(=国際法・国際条約など)に従う必要のない、強力で軍事力を持った国家間の闘争へと変えようとしているのである。
それらの国家は、自らの行動を誰にも審判されず、従うべき上位の法も持たず、自国の利益しか考慮する必要のない代表者によって、運営されるものである以上、国家間の経済取引というものは、最後には力と力の衝突に終わらざるを得ない』(ハイエク『隷属への道』、春秋社、305~306頁)