(もともとは、フランス革命にかぶれたベンサム発の「自由放任(レッセ・フェール)」「やりたい放題の自由」「放縦の自由」「奴隷の自由」ではない、「"法(自生的秩序)"の支配の下の自由」「美徳ある自由」という意味での、「本来の保守主義における自由」を意味する比較的マイナーな言葉でした)
(ご参考)
・P.F.ドラッカー「経済人の終わり-全体主義はなぜ生まれたか」(ダイヤモンド社)
・F.A.ハイエク「ハイエク全集Ⅰ-5 自由の条件Ⅰ」(424頁)、
・F.A.ハイエク、西山千明「新自由主義とは何か-明日を語る」(西山千明訳、東京新聞出版局)→このハイエクとの西山千明氏の対談本の中で西山千明氏が「放縦の自由」と区別するため「新自由主義主義」という日本語を用いて訳した。
しかし、簿記2級の知識もない無学な「自称経済評論家」三橋貴明によると、こういうことらしい。
http://www.gci-klug.jp/mitsuhashi/2011/05/03/012632.php
『ショック・ドクトリンの元祖は、新自由主義の本家たるミルトン・フリードマンである。フリードマンは、新自由主義の本家として「完全なる自由主義経済」を主張し、ケインズ型の政策を批判した』
『フリードマンは、1930年代の大恐慌すらも、市場の失敗ではなく、政府の失策が原因だと主張しているのである。具体的な新自由主義の方策として、フリードマンは「あらゆる政府の規制の緩和」や、「徹底的な経済の対外開放(貿易の自由化)」などを主張している』
http://ameblo.jp/takaakimitsuhashi/entry-11129925256.html
『しかも、アメリカはミルトン・フリードマンやシカゴ学派による、「歴史や伝統、文化に基づく既存の仕組みをわざわざぶち壊して、強引に経済の自由化を図った挙句、国内の格差が極端に拡大する」
という、
「それは絶対にフリードリヒ・ハイエクが言った『自由主義』とは違うだろ!」
と力の限り叫びたくなるような政策、すなわち「新自由主義」の元祖で、自国のみならず他国に対しても一部の投資家、大企業に所得が集中する「資本主義」を「強要」し、各国の中間層を貧困に叩き落としてきました。こんなものを「健全な資本主義」などとは、わたくしは絶対に呼びたくないわけです』
嘘!嘘!嘘!の羅列
三橋貴明、西部邁、中野剛志、藤井聡ら、赤い扇動家の話を聞いていると、まるで、フリードマンとハイエクの主張が、全然違うかのように聞こえてきます(ハイエクは擁護、フリードマンは徹底的に貶める)。
では、実際に、ハイエク自身の主張を見てみましょう。
『ミルトン・フリードマンと私(ハイエク)は、通貨政策を除くほとんど全てのことで意見が一致するのです』(「ハイエク、ハイエクを語る」名古屋大学出版会、186頁)
この時点で、ブー!終了!
この赤い扇動家たちの虚構を暴くため、さらに検証します。
フリードマンは、ハイエクが組織したモンペルラン協会の設立メンバーの一人。
(モンペルラン協会:アダム・スミス、エドマンド・バーク、ジョン・アクトン、トクヴィルらの潮流に属する「保守主義」「自由主義」を守るため、経済学者、歴史学者、哲学者らを招き、ハイエクにより1947年に設立された)
『この新しい団体の名前は別として、綱領には、アクトン卿の名に並べ、ブルクハルトの名と、さらに、この二人と共通点が多いフランスの歴史家、アレクシス・ド・トクヴィルの名を加えることが望ましい。この三人の名が並べば、アクトン卿一人の名より、その基本となる政治理念がいっそう明らかになるであろう。その理念に導かれることで、歴史は、将来のヨーロッパが必要とする政治的再教育の一翼を担うことができる。なぜならば、この三人は他の誰にもまして、偉大な政治哲学者、エドマンド・バークの伝統を受け継いでいるからだ。アクトン卿はバークを評して、「彼の秀でたるところは、イギリスの秀でたるところであった」と言っている」(F.A.ハイエク「ハイエク全集Ⅱ-5 政治学論集」17頁)』
(モンペルラン協会・ホームページ)
https://www.montpelerin.org/montpelerin/mpsAbout.html
保守の仮面を被った赤い扇動家が貶めるような、
・「あらゆる政府の規制の緩和」
・「徹底的な経済の対外開放(貿易の自由化)」
を、フリードマンは主張していたのでしょうか?
・『自由市場が存在するからと言って、けっして政府が不要になるわけではない。それどころか、「グームのルール」を決める議論の場として、また決められたルールを解釈し施行する審判役として、政府は必要不可欠である。ただし市場は、政治の場で決めなければならないことを大幅に減らし、政府が直接グームに参加する範囲を最小限に抑える役割を果たす。政治を介して何かをする場合、どうしても多数派に従わせる結果になりがちだ。これに対して市場は多様性に対して寛大であるという大きな利点がある。政治の言葉で表すなら、市場は比例代表制である。自分が欲しい色のネクタイに一票を投じ、手に入れることができる。多数派が欲しがるのは何かを気にする必要はないし、自分が少数派だったとしても多数派に従う必要はない』(フリードマン「資本主義と自由」日経BP社、44~45頁)
・『(外国為替相場において)変動相場制を導入すれば、財とサービスの自由貿易を効率的に推進できるようになる。唯一の例外は、共産圏への戦略物資の禁輸など、純粋に政治的、軍事的理由から妥当と考えられる計画的介入にとどまろう』(フリードマン「資本主義と自由」日経BP社、144頁)
三橋貴明、西部邁、中野剛志、藤井聡らは、明らかに嘘八百のデマを流しています!
少し本を読めば扇動家の嘘は容易に見破ることができます。
この近年の新自由主義なる言葉の出処は、これ
↓
米国在住の極左であるデヴィッド・ハーヴェイの著書「新自由主義 その歴史的展開と現在」(2007年2月初版、作品社)
※作品社の「社会学」分野は左翼の出版物ばかり
http://www.tssplaza.co.jp/sakuhinsha/book/shakai-list.htm
論壇で、やたらと「新自由主義」という資本主義への倒錯した罵倒が行われるようになったのは、この本が出版されてから(2007年以降)です。
例:「西部邁 新自由主義」の2006年までのgoogle検索結果(←ここをクリック)
⇒西部自身が、この極左本の出版以前に、「新自由主義」という言葉を市場経済罵倒のために使った形跡無し。つまり、西部邁とその一派は、この保守主義・自由主義とは対極の、極左・全体主義信奉者の本を源泉として「新自由主義」という言葉を使うようになりました。
このデヴィッド・ハーヴェイの著作には、次のことが書かれています。
・『新自由主義とは何よりも、強力な私的所有権、自由市場、自由貿易を特徴とする制度的枠組みの範囲内で個々人の企業活動の自由とその能力とが無制約(注:ウソ。ハイエクもフリードマンもバークもアダム・スミスもそんなことは一言も言っていない)に発揮されることによって人類の富と福利が最も増大する、と主張する政治経済的実践の理論である。国家の役割は、こうした実践にふさわしい制度的枠組みを創出し維持することである。たとえば国家は、通貨の品質と信頼性を守らなければならない。また国家は、私的所有権を保護し、市場の適正な働きを、必要とあらば実力を用いてでも保障するために、軍事的、防衛的、警察的、法的な仕組みや機能をつくりあげなければならない「さらに市場が存在しない場合には(たとえば、土地、水、教育、医療、社会保障、環境汚染といった領城)、市場そのものを創出しなければならない―必要とあらば国家の行為によってでも(注:ウソ。ハイエクもフリードマンもそんなことは言っていない。参考・フリードマンの上記発言。ハイエク「隷属への道」春秋社、171頁)。だが国家はこうした任務以上のことをしてはならない。市場への国家の介人は、いったん市場が創り出されれば、最低限に保たれなければならない。なぜなら、国家は市場の送るシグナル(価格)を事前に予測しうるほどの情報を得ることはら、この理論によれば、国家は市場の送るシグナルできないからであり、また強力な利益集団が、とりゎけ民主主義のもとでは、自分たちの利益のために国家介入を歪め偏向させるのは避けられないからである(10頁~11頁)。』
・『新自由主義への転換を正当化しうるのに十分な民衆的同意はどのようにして生み出されたのだろうか?これにいたる回路は多様だった。企業やメディアを通じて、また市民社会を構成する無数の諸機関(大学、学校、教会、職業団体)を通じて、影響力のある強力なイデオロギーが流布された。かつて ー九四七年にハイエクが思い描いた新自由主義思想は、こうした諸機関を通じた「長征」を経て、企業が後援し支援するシンクタンクを組織し、 一部のメディアを獲得し、知識人の多くを新自由主義的な思考様式に転向させて、自由の唯一の保証としての新自由主義を支持する世論の気連をつくり出した。こうした運動はその後、諸政党をとらえ、ついには国家権力を獲得することを通じて確固たるものになった。
伝統や文化的価値観に訴えることは、この全体にわたって大きな比重を占めている。少数のエリートの経済権力を回復させる企図をあからさまに出せば、おそらく十分な民衆的支持を獲得しえないだろう。だが、個人的自由の大義を前進させるための計画的な試みという装いをとるならば、大衆的基盤に訴えることができるし、階級権力の回復という狙いを偽装することもできる。またいったん国家機構が新自由主義的なものに転換してしまえば、その権力を用いて、説得や取り込み、買収、脅迫を行ない、その権力を永続化する上で必要な同意の風潮を維持することができるだろう。これこそ、これから見ていくように、サッチャーやレーガンの得意とする手段だった。(61頁)』
⇒共産主義の総本山・ソ連を崩壊させたサッチャー、レーガン、そしてハイエクらを罵倒 !
・『スウエーデン市民は、いまだ自国の福祉制度に強い愛着を抱いていた。不平等は確かに広がったが、アメリカやイギリスで見られるほどではなかつた。貧困水準は低いままだし、社会的給付の水準は高く維持されていた。スウエーデンの事態は「限定された新自由主義化」と呼びうるものであり、同国における種々の社会的指標がおおむね高い水準に維持されていることはその表われである。』
⇒犯罪発生率は日本の7倍、離婚率5割、強姦件数は毎年過去最高記録を更新する「福祉国家」スウェーデンを絶賛 !
ちなみに、もう少し前のデヴィッド・ハーヴェイの著書「ポスト・モダニティの条件」(1999年12月初版、青木書店)には、こんなことが書かれています。
※青木書店は筋金入りの極左出版社
http://www.aokishoten.co.jp/contents/list/index.html
・マルクスがあらゆる資本主義的生産様式の根本をなすとした不変の諸要素と諸関連が、現在もなお、フレキシブルな蓄積にきわめて特徴的な、あらゆる表面に漂っている泡としだいに消えてゆくものを通して輝いており、しかも多くの場合、これまで以上に輝いているのを知るのは、むずかしいことではない。(243頁)
・差異と「他性」は、(階級や生産諸力のような)より基本的なマルクス主義の諸範疇に付け加えられるものとしてではなく、社会変動の弁証法をとらえようとするいかなる試みにおいても、まさにその試みがはじめられる段階から偏在するものとして扱われるようになった。(貨幣と資本循環とを強調する)史的唯物論的探求と(解放のための闘争の統一を強調する)階級政治という全体の枠組みの中で、人種、ジエンダー、宗教のような社会組織の諸側面に再び光があてられるようになったことは、いくら評価されても評価されすぎということはない。(458頁)
⇒ハーヴェイは自らマルクス主義者であることを堂々と主張!
近年になって「新自由主義」なる言葉で資本主義、自由主義を罵倒する者は、デヴィッド・ハーヴェイを始祖とする極左そのものです。
思想本籍がバレバレですね。